判決、ふたつの希望


宣伝担当者からの熱烈なレコメンデーションを受けてなければ、うっかり見逃すところであった本作。あぶない、あぶない。

幾度にも続いた中東戦争とそれに伴うパレスチナ難民の受け入れで、複雑な宗派での社会運営を余儀なくされた、いつだって不安定なレバノン情勢が物語のバックボーンをなす硬質な“社会派映画”であることは確かなのですが、時事問題に疎いからといって、尻込みして敬遠するには及びません。

蓋を開けてみれば、国や年齢問わず誰もが身に覚えがあるはずの、「対話」をテーマにした普遍性の強いヒューマンドラマが繰り広げられます。

価値体系や生まれた環境の異なる人間と人間が、軋轢を乗り越え、互いを理解し、受け入れるまでのプロセス。拗らせた自尊心と身勝手な被害妄想と、それぞれに勇気が強いられる、寛容に辿り着くまでのお話です。中東に限らず、世の中のどの場所を切り取っても、そこら中に転がっている類いの物語として僕は受け止めました。

知識層やリベラル派からのマイノリティへの庇護を盾に、こちら側の権益を侵食する憎きパレスチナ難民。幾度もこちら側の人権を剥奪し、家族や仲間の命を奪い続けてきた悪しきキリスト教徒。

宗派の違う2人の主人公が、水がかかった、かからない、謝る、謝らない、の瑣末な揉め事を即座に解決できず、大仰な事態に発展させてしまうのは、互いの属性への強烈なステレオタイプが脳裏にこびり付いていたからでしょう。

レッテル、肩書き、カテゴライズ。。

出身地や学歴、業界、会社名、家族構成、等々、どうしたって僕らは 、“外”の人間と対峙する度に、属性に紐づいた、他人やメディアが誘導する固定観念に引っ張られてしまいます。物事を分類化し簡略化する思考と、分かりやすさこそ正義といった価値観に慣れ親しみすぎて、そこからはみ出した情報や煩雑さをバグとして無意識に忌み嫌ってしまうのはなぜなのでしょうか。

それぞれの人間に紐づく固有のストーリーを交換し合う中で、次第に赦しの気持ちが芽生えた2人の主人公のように、1歩ずつ互いの属性の先に生い茂る“雑木林”に分け入って、理解し合う姿勢を見せることで他者を許容できることは、本来難儀ではないはずなんですよね。そんな体験や心当たりは、誰にだってあるはずです。

だからこそ、今作の「対話」の舞台がたまたま法廷であったように、街や、組織や、仲間や、家族の中にも、「対話」が自然発生的に引き出される余地、機会、機能が必要なのだと思います。僕らは油断するとすぐにコミュニケーションを重ねるカロリーを削ぎ落とし、定形化されたイメージの世界に引き蘢ってしまいますから。

分かりやすさにかまけていると見落としてしまう。
目の前に立ちはだかる複雑さから、逃げずに、サボらず向き合うことで得られる恩恵というものが確実に存在するということを再確認できた、目の覚めるような映画でした。
(って、だいぶ優等生な感想だわ。。)

本年度ベストの呼び声高いのも頷ける、身震い止まらない力作です。
ぜひ日比谷シャンテまで。





























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